船小屋温泉郷

歴史/湯の歴史 のバックアップ(No.1)

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船小屋の代名詞とも言える炭酸鉱泉は今から約200年前までは
誰もその効能を知りませんでした。

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雀地獄

  • その昔、矢部川付近で何かブツブツと湧出する一カ所の地点ができました。その上を蝶や蜂などの昆虫が飛んでくるとバタバタと墜死しました。人々はこれを見て不思議に思っていると、その虫に群がる雀が低くこの上を飛ぶと、これまた見る間に死んでしまったのです。当時の人々はこれを神や霊現だとこわがり、近づこうとしませんでした。やがてこの湧き水は「雀地獄」と呼ばれ、神秘的な現象であると考えられていました。

良霊泉場

  • ある日この地で病に苦しむ老人が、薬湯に親しんでも効果がないので、湧き水によくしてみようと村人に話したら「祟があるからやめたが良い」と止められたものの、病の苦しみからひそかに沸湧水に浴してみると不思議にも気持ちがよく、それから一日何回も浴してみるうちに数日たつと病の苦痛がとれてしまいました。これを聞いた村人たちは、天恵の霊現なりとして、病に苦しむ者は続々と浴し、また霊水を飲んだりもしました。もともとこの地は農村であるため、野に出て傷をおった者は、この沸水に浸るとたちまち回復する等の著しい効果があることが判明すると、村人の宣伝は他村にも伝わり「船小屋に一大霊泉現わる」との声が、筑後路一帯に轟き渡りました。

井戸

  • 1824年春、はじめて井戸を掘る事になりましたが、この工事に従う人夫は、数分間で蒸発する霊気にふれて労役に堪えられず、手拭を口に当て交替を繰り返しながらの作業でしたが、長い年月の難工事の末ようやく完成しました。この霊泉は冬の減水期といえども、水量が減ることもなく、まさに天駕船小屋にのみ与えた限りない恵みであるとうなずかれました。

鉱泉は薬湯?

  • 1866年人々は温泉室を設け、附近の人々はこの浴室を中心に、旅館向きの家を立てましたが、入浴客は増えませんでした。鉱泉を飲んでも歯や舌を刺激し、一度沸湯すれば淡黄なものが浮かび上がって、手拭やハンカチ等は赤褐色に染まる等の理由で恐れて飲まず、顔さえ洗うものがいないまでに嫌われました。土地の人々はこの鉱泉は薬湯であると固く信じていましたがそれが証明されることはありませんでした。

炭酸泉の証明

  • 1886年船小屋を訪れた阿川光祐という官界に身を投じた人がこの鉱泉を飲み、「この鉱泉はおそらく摂津有馬の冷泉と同質なものであろう」と推賞し、県に願い出て分析を熱願した結果、同年11月福岡県衛生課大島健吉が船小屋に来て分析を行った結果、天下稀に見る炭酸水であることが確定し、好成績を得るに至りました。
  • 日露戦争中船小屋は陸軍指定の転地療養所に指定されました。その際800人程の療養者の家族も来訪し、船小屋一帯は盛況を来し、またそれが船小屋の名を全国に広めることになりました。


参考資料:筑後市史 第二巻,筑後郷士史研究会誌 第37号